廃棄・生成・結晶 - 伊奈英次『WASTE』に寄せて -

 こまかく破砕された金属屑の無数の群れが波打ち、さんざめき、乱反射しながら山のような起伏をつくり、何か言いがたいパルスを伝えてくる。焼却後の特定不能な廃棄物が得体の知れぬ怪物のような不気味な色彩を放出している。ドラム缶の底に残され固まったインクが秘かに発光生命体のような共鳴と反響を巻き起こす。廃油の膜に走る一瞬の光景、エンジンを焼却して取り出された液状の鉛は神々しいほどの光をたたえ、湾曲した金属管やプラスチックは宇宙の闇のような質感を帯びる。膨大な数のガラスのチップが形づくる緑の幕(アクト)や液状物を焼却処理したパウダ-状の灰の堆積物の透明な濃密の美しさ。消費と破壊と処理の果てに遺棄され、死んでいたものたちの光景や気配は、伊奈英次という特殊な抽出体を得ることによって、異様な美を甦らせ、見る者を戦慄させ、抗し難い世界へ引きずり込む。それは、ある特別なイメ-ジが、なぜ我々の精神に強く作用するのかという問題に直接関わる表象であり、人間の感知するという行為にあらかじめ組み込まれたトリガ-の存在を指し示すものだ。伊奈英次の『WASTE』の場は、日本という巨大な消費王国が生みだし続けている産業廃棄物の残骸の集積場である。廃棄は、この日本を成立させている最も重要な問題でありながら、現実の生活においては存在しないもののように仕組まれている。廃棄は日本の産業資本を支える循環パタ-ンでありながら、そのメカニズムは我々の眼からは巧妙に隠蔽され続けているのだ。近代日本の生産消費のシステムは、それまでの日本のシステムが保持していた自然の循環作用や自浄作用を抹消し、その周辺に見えない、隠れた処理場や廃墟の山を無数につくりあげていった。それは人間の欲望の、時間の劣化作用と変形作用を受けた痕跡の残骸であり、忌むべき悪臭と腐敗の場である。しかしその嫌悪すべき場が、写真のレンズを通す時、かつてないほどの輝きを放ち、戦慄すべき美を提示してくる。このダブルバインド状況こそが、伊奈がアクチュアルに活動しようとした位相であり、我々が立ちすくんでいる現場といえるだろう。かつて伊奈はこう書いたことがある。「同種類の廃棄物が大量に投棄されている現場は圧倒的な迫力を醸し出し、さながら古戦場のような錯覚におちいる。殺戮と破壊のかぎりをつくしたあとのように。しかし、写真の対象として廃棄物を見つめた場合、限りなく魅力に満ちた被写体に変貌する。このギャプが、写真に対する私の麻薬的快感を増幅させる。原爆の閃光が倫理を超えて美しいと感じるように。キタナイモノがキレイに撮れるという単純なパラドックスは、写真という映像メディアに課せられた原罪のような役目を担わされている。四角いフレ-ムで切り取られたイメ-ジは、嘘と真実の拮抗するバランスによって複雑なリアリティを構成する。」

1981年の「都市の肖像」展、1984年の「IN TOKYO」展、1987年の「ZONE」展、1989年の「人工楽園」展、1991年の「MATERIAL EVOLUTION」展、1993年の「SCRAP」展、1995年の『WASTE』展と、伊奈英次の80年代から90年代への軌跡を振り返ってみると、あらためて彼がいかにこの複雑な、融合したミックスト・リアリティと格闘し、闘争してきたかがよくわかる。つまりその軌跡には、伊奈が現実だと思っていたもののリアリティが急速に失われてゆき、それまでとは異質な人工的なリアリティが浮上してくる流れが写し止められ、伊奈はその新しい現実のうごめきや気配、物性のようなものをとらえるために従来の写真のアプロ-チを次々と再検証してゆかねばならなかったのだ。

80年代初頭の「都市の肖像」展と、『WASTE』との間の大きな隔たりは、その次々と剥ぎ取られてゆく現実感の喪失の深さを喚起させてくる。そしてそのプロセスのなかで伊奈は当然のように写真というメディアの奇妙なメカニズムにも突き当ってゆく。伊奈の軌跡は、ある意味で写真というメディアだけが内包する特別な現実感の生成現場へたどりつくための旅のようなものだったのかもしれない。例えば伊奈は80年代最後のシリ-ズである「人工楽園」において、自然のシンボルである果実や植物にスプレ-でギラギラとした塗料を吹きつけて撮影し、自然の概念を一瞬にして完全な人工世界へと変換させてしまう新しいアプロ-チを試みた。そこでは被写体がスプレ-によってあっというまに自然から人工へと転換するのだが、同時に写真というメディアのなかでも現実が人工へと一瞬のうちに変容してしまう。この三年がかりのシリ-ズの最初は、被写体の花弁や葉脈が識別できるような人工物であったものが、最後にはそうした被写体の自然性はあとかたもなく消滅し、物質そのものの感情のざわめきとでも呼びたい不思議なパタ-ンやフォルムの方が大きくせりだしてきていた。それはまさに写真という特別な形式に封じ込まれた物象が発酵させる奇妙な感覚のゆらぎのようなものなのだ。写真という次元からのみ発生する新しい人工現実感を、伊奈はそこで明瞭に浮上させようとしたのである。さらにそうした方向は、自ら粘土をこね、不可思議な形状をつくりあげ、それにカラ-リングを施した「MATERIAL EVOLUTION」でも続行されたが、90年代に入ってからの「SCRAP」や『WASTE』ではそうした操作的なアプロ-チをやめ、また別方向からの現実感の模索を始めている。考えてみれば、すでに「IN TOKYO」や「ZONE」の頃から伊奈は「自然の風景」のなかに人工的で、構成的で、幾何学的な要素を見つけ、それを独特な感覚と技術で写しとめている。「人工楽園」や「MATERIAL EVOLUTION」は、そうした光景を独自に現実化したいという生理的ともいえる欲望をより直接的にデフォルメし、具体化したシリ-ズであったが、「SCRAP」や『WASTE』では、写真の機能の原点に立ち戻り、今一度、自然と人工の境界を止揚するような興味深い試みをおこなっている。それも日本という特別な場の、特殊なエッジの領域を精密に、大胆にスキャンニングしてゆくことによって、自然からは最も遠いと思われていた物象のプロセスを自然そのものに繰り込むようなアプロ-チをとって、である。そこでは人工と自然という境界はあまり意味を持たない。そこでは自然と芸術という区分けもあまり意味を持たない。そうした界面を無効にする感覚的な記憶の束を伊奈のイメ-ジは引きずり出すのだ。だからそこには、もはや自然でも人工でもない独特な現実感がもがき出てくる。質感や細部やト-ンやパタ-ンがうごめき、重なりあい、ある特別な感情を発してくる。鍵になるのは生成変化ということなのかもしれない。伊奈のセンサ-が一貫してとらえているのはそのことなのだ。そして皮肉にも写真は表面上はその生成変化を切断するものとしてある。通常、我々は人工物と自然を見きわめる確かな能力を持つと信じている。だから例えば海辺を歩きながら打ちあげられた貝殻の破片や骨のかけらや漂流してきた見知らぬ動物群のかたまりなどを目にする時、その傍にある見なれないスクリュ-やバルブや無線機の端子などは、それらがどのように変化し、骨や貝殻と同じく石灰質の物質からできていようと、明確な人工の感覚を伝えてくると思っている。しかし『WASTE』を見る時、確かに人工物を写しとめたものなのだが、それらの実在の底流に何か自然物と同質のものが流れているかのような不思議な感情に襲われてしまう。それは『WASTE』のイメージが、生成変化する物質の普遍性を透かしだそうとしているからではないのだろうか。人工物は不変で固定された状態であるかのように見えながら実は、自然と同じように生成変化してゆく。その長い時間の流れを伊奈の写真は一瞬の切り口として物質に封じ込めてゆくかのようだ。伊奈は廃棄物のなかに物質の生成変化を透視し、巨大都市の循環を予見しようとするのだ。自然の形態は生成変化する。時の流れは自然の形態の本質的な構成要素である。したがって肉眼や顕微鏡によって手に取ったり、認識できたりするような空間的な対象は、形態自身の流れから切り取られた単なる断面でしかない。そして写真こそその一瞬の断面の究極的なイメ-ジといっていいだろう。生成変化の過程のある瞬間に凍ってしまった対象、写真は発生の流れを止める反自然的なメディアなのだ。けれども『WASTE』では、こうした写真の特性は否定され、ある時は早く、ある時は遅く、持続的に自らを展開してゆく形態の運動と静止が同時に写し込まれてしまう。こうしたものの見方が彼の写真に独特の気配をたちのぼらせている理由なのだろう。そうした透視する視線こそが、伊奈の写真に結晶化された構造を与えている。伊奈の物象を見る眼にはある種の完璧な完結性がある。ある楽曲から摘出されたフレ-ズがその残りの全体を暗示するかのように、彼の写真はその個別化された人工物をおおっている全体の構造を浮かびあがらせてくる。そのような内的秩序と外的秩序の緊張を伊奈は直感的に同時に写真のなかにおさめようとするのだ。内的秩序とは例えば結晶構造であり、単一の、あるいは小数の関係によって秩序づけられ、その単位のひとつひとつは相互の引力や斥力に従って明確に配列された要素から構成される。実はこうした原初的な要素を維持している力は膨大な数の活動体の相互作用から発生してくる。目に見えない巨大な力が、そこに集約的で、相互的な形で存在しているのだ。伊奈が見ようとしているのは、そうした物象の背後の巨大な力の流れに他ならないだろう。だから伊奈の一見、静的なイメ-ジからは特別なリズムの波動がつくりあげられる。そして内的秩序と外的秩序が共振する結晶状態が見る者のなかにも生成してくるのだ。伊奈の写真は我々の精神の構造と微細なレベルでシンクロし、我々が何かを感知し、何かと触れあう時の基本的な姿勢のようなものをなぞろうとする。『WASTE』は、そうした意味で、伊奈の特別な志向を最も鮮明な形で提示した界面のウィジョンと言うことができるだろう。