2000『広告問題 [InSite]』 SPECIAL EDITION OCTOBER
株式会社朝日出版社
杉田●基本的にはボクたちは写真を見る機会が多いよね。ワークショップとか学校とか、それ以外にもある。でも、写真とか美術の世界での、表現としての善し悪しを言うことは結構簡単だけど、写真からその奥を見ていくっていうことって空しいというか不可能だというようなことがある。それを言っちゃうと、じゃあ何も言えないよねみたいな話になっちゃうんだけど……。
伊奈◆写真を解釈したりとか、何かを読み取ろうということに対して、ちょっと横暴じゃないかということでしょう?
目の前に膨大な量の写真があるわけだけど、ここからこれを撮った女の子達の生活とか意識の世界に入り込んでいくのはすごく難しい。でも、批評なり展評なり学校の教育なり、すべてはそういうことじゃない? だからそこが問題だというのもわかるけど、基本的には同じじゃないかな。広告代理店が何をやろうが、授業でボクらが何をやろうが、何ら変わりないと思うんだけど。1つのゲームとして捉えれば、そこにいろいろな階層があって、広告代理店の階層だったり、授業の階層だったり、評論家用の階層だったりするだけだと。
杉田●そうだね。ただ、それぞれある哲学的、文化的、サブカル的、その他諸々の文脈の中で話をするわけだけども、ときにそれが分析のようなかたちをとることがあったとしても、それはあくまでも個人がそう感得しただけのものであって、それ以上のものではないと思う。
伊奈◆ここでの分析が、マスに対して、何らかの根拠として機能するようなことはあって欲しくないということ? でも、フランクに言えば、一方ではそれを求められているわけだろう。これって、大袈裟な言い方をすれば、そういうことを強いる社会のシステムの問題ということ?
杉田●例えば、ボクたちは近代のシステムを経過し、その近代が解体しつつある、問題がいろいろ出始めていて、ポストモダンに移行しつつあるというような話をよくする。けれども、資本主義ということでいえば、西欧の場合はまずベースとして個人主義があり、その上で平等に自由競争するというという最低のルールがある。最低のルールを決めて、その上で戦おうぜみたいなところがある。そうしたかたちでできあがったシステムが近代だと思うのだけど、日本の場合は、ベースの部分に同族性とか、差異の否定みたいなものがある。つまり、最も基盤ともいうべき部分が腐食していたというか……。
伊奈◆結局それは、日本の近代化がどういう経緯で進んだかにも関係しているんだよ。江戸幕府が倒れた時、市民革命であればともかく、尊王攘夷というかたちで、いったん朝廷に権力が移行する。だから、そこでいわゆる個人というものが抜けていってしまう。
杉田●つまり、出だしの部分がいいかげんであるにもかかわらず、その上の構築物はそのままつくってしまおうというようなかたちで始まってしまっているんだよ。それがあらゆる方面に関して言える。下世話なとこでは証券業界とか、そして写真とかアートについての分析においても(笑)。
伊奈◆そうすると、若い人の映像表現、つまり具体的にはここにあるような写真を見て何かを導き出すということも、結局同じように基盤の部分で腐っているということ? それはある意味では同感なんだけど……。何か具体的にある?
杉田●例えば、ボクらは何気なくガーリーフォトみたいなものを受け入れてしまっているけど、それが見出されてきた経緯というはきわめて不透明だと思う。一方、ウォルフガンク・ティルマンズが出てきた経緯というのはわかりやすいような気がする。西洋美術史の中であの部分がすっぽりと抜けていて、そこにファッションから経歴をスタートさせたティルマンズがすっぽりとはまり、見事に私性みたいなものまで持ち込んでしまう。それと比べると、日本のガーリーフォトというのは、私性とも言われるけど、はたしてそれが抜け落ちていたのかさえ定かではない。
伊奈◆例えば、蜷川ミカなんかであれば、私性という中にくくることもできるけど、彼女の作品には汚いものを取り除いた美しいものだけで構成される虚構性みたいなものも含まれている。私性ということと同時に、とにかくきれいなものを撮っている。それは、別に悪いことでも何でもなくて、そこが彼女にとって居心地がいいということだと思うんだ。だけど、例えばそういう意味では、『日本カメラ』的なフォトジェニーさというのは、芸術写真の観点から見ると否定される場合が多いと思うのだけど、ああいったものとの違いとか同質性みたいなものをしっかりとは意識できていない。
杉田●そうだね、もちろん完全に同じものではないけど、同質性もある。
伊奈◆『日本カメラ』に載っているようないわゆる花鳥風月的なきれいな写真というのと、こういう高校生のガーリーフォトの予備軍みたいなものって同じような部分が確かにあるんだよ。それを私性というところで括っていいのかどうかはどうもわからない。
杉田●HIROMIXも空を撮ったものとかはそうだと思うんだけど、蜷川ミカとかがやってくるああいうフォトジェニーなものというのが受け入れられるのに、私性というヘンな容物が用意されているけど、それって本当なのかなあという気がする。たぶん西洋美術史ではこんなことはないと思うな。もう少し弁証法的な進化のかたちをとるというか……。
伊奈◆でも日本なんて弁証法が適用できないもん。
杉田●できないけど、それがとても日本における近代の底抜け具合と不思議にマッチする。
伊奈◆そうだね。だから根本的なことはきっとそこだと思うんだよね。みんな近代を超克した素振りを見せているんだけども、実は未だに近代的であろうという思いに囚われつつ、おまけにそれができていない。ボクはそれは強く感じるね。それが美術を評価したり、写真を評価したりするっていう土壌についても同じだということだよね? 何かそこに結構気持ち悪さを感じるっていうか……。でもその気持ち悪さって何なんだろう。
杉田●何だろう。例えば、ポストモダンというものは、近代を経験した西欧が、自身を内省したときに見えてきた問題を克服しようとする運動だというように捉えることができると思うのだけど、そうであれば、少なくともそれに類する内省は必要なのじゃないだろうか。アルフレッド・タルスキやクルト・ゲーデルが論理学や数学の中に見出した一種の亀裂から、自身の文化の無根拠性へと視野を広げていく批判精神とも言うべきものといってもいいと思う。もっとも、日本の場合はそれを近代に向けるのではなく、近代を経験したような気になってしまっている、ポストモダンさえ先導したような気になってしまっている自分に向けなくてはならないのだけれども。何かずいぶん写真とかけ離れちゃったね。写真に戻っていったほうがいい?
伊奈◆いやもう少し話そうよう。キミは今、西洋が内省して自身の腐敗を見出したけど、日本はそれ相当のことができていないというようなことを言ったけど、ひとつにはそれは、アジアあるいは日本と西欧という視点から見ているというのが問題なのかな。例えば、日本からは本当に死角になっているといってもよいイスラム文化圏があるよね。過激派が頻発させるテロ行為には弁解の余地がないとしても、西欧優位の図式のなかで、精神的な意味で学ぶことは少なくないというか、それこそたくさんある。
杉田●そう、それはテロリズムなどよりも、何気ないことで一気に感得される。例えば、スペイン南端のアルヘンシラスからフェリーに乗ってジブラルタル海峡を渡ってタンジールに入れば、きれいに偶像がなくなる。イスラム世界は偶像崇拝が禁止だからね。だから、コースを逆に辿ってスペインで宗教画でも見た日には、ポンチ絵に見えてしょうがないわけ(笑)。タンジールが政治的に特殊な状況下にあったということもあるけど、今世紀の初頭に、不良ヨーロッパ人はみんなあそこを越えていくわけじゃない?
伊奈◆キミの好きなボウルズも、コースは異なるけどランボーもそういってよいよね?
杉田●そうだね。しかも、これはあまり言及されることはないけど、写真の原型とも言われるカメラ・オブスキュラは、最初バクダッドのイブン・アル・ハイサムという自然科学者によって構想されてるんだ。
伊奈◆そうか、そういう視点から見れば、写真やアートについて評するということ自体がポンチ絵のような気もしてくるよね。ところで、いきなり写真に戻るけど、目の前にある若い女性が撮った山ほどの写真の中には、極めて禁欲的なものがあるような気がするんだ。禁欲的という言葉はおかしいかもしれないけど、例えばドイツではベッヒャー夫妻のタイポロジーのようなものには、ものすごく理性的にコンセプトを捉えるという一種の禁欲性がある。もちろん、それとはかなり趣の異なるフランス的な写真は、人間というものを中心に据えて、理性的過ぎないようなかたちで、別の抑制が効いている。彼らはそれを意識しているのだけれども、ここにある写真を見ていると、無意識のうちにさまざまな抑制が効いてしまっているような気がする。
杉田●ベッヒャー夫妻の写真は、ある意味では語りやすい。つまり、いまキミが理性的にコンセプトが練られているというようなことを言ったけど、そうしたコンセプトとか方法に関しては、少なくとも写真そのものについて語るのよりはたやすいんだよ。
伊奈◆コンセプトあるいは方法論的に特化しているという意味では、ベッヒャー夫妻の写真には写真的な快楽というのはまったくないのかもしれない。これは、フランス人のキュレータも同じようなことを言っていた。で、フランスは、そういったコンセプチャルなものだけであることから距離を置くために、身体性とか行為とか、現場というようなものに、より大きな意味を見出そうとする。
杉田●だけど、それがそれでまた、ドイツとは異なる形での不自由さを感じさせる。コンセプチュアルなものに溺れないために、それを突き詰めないようにするんだけど、それが微妙にブレンドされた程度でもと求められていて、外から見ているとその辺は不自由な感じがするわけ。そういう視点から見ると、今度はベッヒャーでさえコンセプトに関してはより自由だったのかなとか思えてしまったりする。彼らの弟子達になると、もう完全に快楽主義的なところさえある。
伊奈◆あるある。だってグルスキーなんてさ、フォトショップをあれだけ使って、もうあれはちょっと一種の工芸にも似た作業じゃない? 最近では、クリエティヴなものを感じないと、同じベッヒャーの弟子でさえ言うよね。何か自分がきれいなものをつくりたいというところで、本当に臆面もなくのめり込んでいる感じがするんだよね。工芸作品というか、平面構成をどうするかということだけへの拘りになってきてるよね。そういう意味では、ものすごく快楽主義的な感じがする。そして、その源にはやっぱりベッヒャーがいる。つまり、ベッヒャー夫妻の場合は堅苦しい不自由さだけが見えてたけど、ベッヒャーの弟子達を通して、ベッヒャーにもそういう類いの快楽があったんじゃないかというところまで見えてくる。
杉田●うん、それは言えると思う。それに対して、この女の子達の写真に戻ると、彼女達はHIROMIXとかによって、自由な写真というか、あんなものを撮ってもいいんだというようなことを教えられてた気になっているわけだけど、でも極めて不自由だよね。というのは、何か自分の生活のリアルな暗部というか、恥部というか、それを見せられなくなってしまっている。マイナスな部分を開けっぴろげに見せるという素振りを見せていても、ワイルドな感じだったり、スピード感があったり、グレてる雰囲気みたいな、ある意味ではカッコイイ虚構のストーリーになってしまっている。これは、かわいかったり美しかったりするものしか撮らないのと変わりない。さらに言えば、花鳥風月。これってある意味の去勢だとも思う。
伊奈◆そうだね。写真学校の18歳くらいの若者達もそうだよ。日常の風景ということで撮らせると、クラブの写真とか、60年代ぽかったり、カンウター・カルチャー系の写真をすごく模倣するわけよね。だから内実というか、彼等のリアリティというのは何も写ってこないわけ。そういう場所に出かけたり、そういう場所が好きだったりするというという一面は確かにあるのかもしれないけど、でも、何かすでに先行する理想的なイメージがあるような気がする。本当の部分は、つまり、ワイルドでも悪ぶってもいないような、マジでダサイ部分は隠蔽されちゃう。どうして隠蔽されちゃうんだと思う?
杉田●どうしてなのかな? 少なくとも、キミが学生のときに撮ったという、スナップショットには、そういった隠蔽感はまったくないよね。それって、才能(笑)?
伊奈◆写真ってそんなに可能性のあるもんじゃないということなのかもしれない。そもそも、写真っていうのは極めて不自由なメディアで、何も語ってくれないものなんだよ。あるコップを撮ることはできるけど、コップという一般概念を撮ることはできない……。これは、名取洋之介が言った言葉なんだけど、そもそもそんなものでしかない。だから、生活のリアリティなんて、そもそも撮れないのかもしれない。そうすれば、女の子達の写真の不自由さもわからないでもない。
杉田●目の前の膨大な量の写真に関して言うと、一個の事実としては、これは二つの写真に分けられるよね。何かくだらないことなんだけど、美術教育を受けた人というか、そういう機会を持った人とそうじゃない人というのは如実にわかったでしょう。
伊奈◆うん、一人面白い子がいると言ってたよね。彼女は何かちょっと違う。そういうものと比べると、その他大勢の本当に普通の写真は、フォトジェニーなものばかりを撮ろうとしていて、しかも全然下手クソで、さらには何か不自由な感じがする。キミはそういう不自由な写真に対してより魅力を感じる? 写真の可能性といってもよいと思うけど。
杉田●うん。
伊奈◆でも、そういう写真って、みもふたもない言い方をすると、すごくつまならいよね。つまらないものをどう面白がったらいいのだろう?
杉田●ピエール・ブルデューは、職業写真家というのは、一般人々の写真実践との差異化によって成立していると言うわけ。これは別に写真家じゃなくても、文章書きだって、表現に関わるすべての分野で言えると思うんだけど、とても示唆深い。一見すると、HIROMIXのような写真教育を排除したような写真というのも出てきているけども、それもまた新たな基準になりつつある。そうすると、そこにもそれこそ大勢の人々が押しかけて、いわゆるそのための教育や、教育でなくてもそれらしく撮る方法というものが生まれてくる。ディシプリンといってもよいと思うのだけど、そうするとそこは、マーケティング的な空白地帯ではなくなる。そのとき、もう一度、普通の、日々山ほど生まれてくるつまらない写真のところに戻ってきてもいいのかなあと思う。少なくとも、もう一回そこが魅力的に見えてくるのはあまり特別なことじゃないと思うんだよ。つまり、何が言いたいのかというと、ボクらはそれはつまらないと思ってるけど、本当につまんないのかなって思うわけ。
伊奈◆そういう時、例えばマーティン・パーみたいな形で、いわゆる観光写真みたいなものを一回パロっていくという方法があるよね。それを取り入れた上でそれを、ポストモダン的に言うと、再構築するというか。でも、そうした戦略自体はもうやり尽くされているわけじゃない?決して目新しいことではない。
杉田●そうだね。だから、この膨大な量のつまらない写真が輝くんだよ(笑)。パーセンテージ的には少ないけど、ちゃんと教育を受けている人のちょっとそれっぽい写真があって、そうじゃない山のようなつまらない写真がある。それは、本当につまんない。でも、逆に面白いのかもしれない。そういう意味で、これらを面白がってるんだよ。
伊奈◆読み取ることの無意味さを承知の上で言うと、ボクは携帯電話が結構引っ掛かっているんだ。これだけみんなが、携帯電話を撮るっていうのはいったいどういうことだろうということを感じない? 若い子達って、コレクションしてるフィギュアとかCDジャケットとか、お気に入りのものを撮るじゃない。可愛いとか、カッコイイとかという、そういう感情の反応が得られやすいものを必ず撮る。携帯電話も、そういうフィギュアとかお人形と同じなのかもしれない。今回うちの学生の18~20歳くらいの子までの日記アルバムふうの写真を持ってきたわけだけど、同時に、自分が20年前にやったものを持ってきたわけ。で、何を撮っているかというと、まったく意味のないウンコとかゲロを撮ってたりするんだよ。そういうものを撮っちゃうんだよ。
杉田●それはキミの生活がそういう生活だったということだけじゃないの(笑)?
伊奈◆いや、でもここの写真の中には、そうした無意味なものは写ってないような気がするんだよね。当時を思い出すとさ、やっぱりウンコとかゲロとかをさあ、結構みんな撮ったりしてたんだよね。まあそれは単なる時代背景かな?ここに写っている携帯が、ウンコでありゲロということなのかもしれないけど、でもきっと違うよ。
杉田●それって、さっき話をした、きれいなものばかり撮るというのと関係あるのかなあ。写真学校の生徒の写真とかを見てると、確実にきれいなものだけ、きれいというのがおかしければ、自分が想定している自分の生活っていうものがあって、それから外れたものは撮っていないというか、そういうところがある。露悪的に見えても、カッコイイ露悪性。
伊奈◆そうだね、徹底的にカッコ悪いのではなくて、オレってこんなワイルドなんだぜ、こんなにラフなんだぜ、くだらないんだぜ、オチャメなんだぜ的な「カッコイイ」カッコ悪さなんだよ。
杉田●ある意味では、理想だよね。理想といっても、例えば宇宙飛行士になって、大きな家に住んでとかというようなのではなくて、現在自分の身の回りにあるところで、その中から排除していくことで成り立つ理想的な世界みたいなものを撮っているというのかな。以前、自分の身の回りのものを機械的に撮るという女の子の生徒がいて、くだらないものとか汚いものとかも結構撮っているんだけど、例えばお菓子なんかだと外国のお菓子ばかり撮っているわけ。パッケージとか、破れたゴミにしてもね。で、もっと他に日本語のカッコ悪いものもお前の家にはあるだろうと言うと、ウンってうなずくんだよ。自分の生 活というか、写真を通して見せる「私」の中には加えたくないようものは撮れないんだよ。これって、さっき言った不自由さと関係あるよね。
伊奈◆へえ、おもしろいね。いまキミが言ったのは被写体の問題だけど、ひとつの写真の中だってそれはあるんだよ。写真って何でも撮れるじゃない。でもそうじゃないんだよな。その都度その都度選別をしていくんだよ。1cm右か左とかいってね、職業写真家になればなるほどそういう緻密な訓練をするわけだよ。結局写真は、枠なわけでしょう。枠を設定するだけの話なんだよ。その時、普通の素人は中心しか見ないわけ。だから記念写真とかだと、遠くに二人とか多いでしょう。あれってどういうことかというと、そういうことなんどよ。フレーム全体は見ていないで、中心しか見てないっていうこと。職業カメラ マンになればなるほど画面構成とかさ、要するに周辺に90%くらいまで意識を集中させるわけ。それだけで、ある程度いい写真というのが撮れるようになっていくわけ。それを自覚化させる作業がいわゆる写真学校での教育なのだけど、乱暴な言い方をすればすごく簡単なんだよ。ここにある大半の写真は、まったくそうしたことが行われていないわけでしょう。
杉田●ボクがそうしたことを最初に知ったのは、キミとウィーンに行ったとき、大聖堂か何かの前でボクを撮ってくれたんだけど、もっと前にこいよとか言われた。ものすごく印象的で、しっかり憶えている。そうなのかって、その時、初めてわかったんだ。よく海外旅行にいった人の写真なんかを見せてもらうと、背景の中に溶け込むくらい小さく遠くに写っている写真があるよね。ボクは、ウィーン以来そういうのは撮らなくなったんだけど、友達はそういうふうに撮ってくるわけ。でもね、そのときボクはひとつ教育を受けたわけだけど、同時に何か物すごく大切なものを失ったような気がしてね(笑)。
伊奈◆はは。だから俺なんかはそれは絶対に撮れない写真になってしまったわけ。どうしても撮れないんだよ。
杉田●絶対にやらないよね。ボクも、ちょっと聞いただけで絶対にできなくなってしまった。でも、友達がそういうマヌケな写真を撮ってきて見せたりすると、なんかいいなと思ったりする。滑稽なんだよ。顔も全然写ってなくてさ、遠くにポツンって写ってたりするだけで、でもいいんだよ(笑)。
伊奈◆それと、今まで話してきたことは同じことだよね。キミの言う普通の写真というのはそういうことなんでしょう? だからそれを復権させていけばいいのかな? だけど復権させちゃってもさ、ボクはそうした写真は撮れないから、作家として凋落の一途を辿るよ(笑)。それと、キミには見せたけども、ボクの双子の兄と撮った、子供の頃の写真があったじゃない? 昔の写真ってどんな下手クソな写真でも何か面白くなっちゃうでしょう。面白く感じることができるよね。まあノスタルジーっていう要素もあるけども、現在撮ったものには感じられないある種のリアリティがあるよね。あれって何なんだろうね。
杉田●作品としての意図がないからかな。制作するという意図が強くあると、時間を経て見ても、それがわかって白けるようなところがあるよね。それに対して、例えば子どもが可愛いから撮るんだということで、構図も何も無茶苦茶でガーッと撮ったようなファミリースナップショット、家族写真というのは時間が経ってみてもものすごい力を持っている。その人を直接知っていなくても、結構、面白いじゃない?
伊奈◆そうだね。自分の子どもの写真っていうのは本当に面白いよね。年賀状で一番最低なのは、生まれた子どもだけが写ってる写真だけど、破って捨てたくなるくらい面白くないじゃない(笑)? でもあれはきっと年月が経つと面白くなるし、ある意味では、もらったときのその時点でも、破って捨てたくなるほど面白いということだよね。そうした子供の写真とさあ、アジェの写真を並行して話をするのは乱暴かなあ……。
杉田●いや、乱暴じゃないよ。アジェは、本来、絵描きのモチーフとして撮っていたということがあるわけじゃない? その無垢性みたいなものが、時代を経て、意図とかそういうものと無縁のかたちで写真の魅力を放ったという感じがする。もちろん、今現在、アジェ風に撮ってもそれは無理なのだけど。
伊奈◆それは無理なんだよ。アジェに還ろうという動きというのは、中平卓馬がやろうとしたよね。結局、その呪縛が70年代をずっと被うことになるのだけど、彼が篠山紀信とともに展開したのは、要するに図鑑のように写真を撮って記録に徹するべきだということ。でも、それが呪縛となって何もできなくなっちゃったんだよね。その時にやかましく言われていたのが記録、記録ということなのね。作者の意図なりコンセプトなりが、要するに時間を経ることによって段々どうでもいいことになっていくわけでしょう。
杉田●現在でも、結構その呪縛は強いよね。ランドスケープなんかには、そうした努力が未だにある。でもさ、ボクらはもうそこに意図を感じるようになってるじゃん。だから同じものでも、中平卓馬的な方法論が本来持っていたカウンターとしての力はなくなっている。で、本来の意味から言うと、破って捨てなくなるような写真の中に、むしろ中平卓馬的なものが残っていたりするのかもしれない。さらに乱暴に言えば、あるいはアッジェ的なものが……。あるいは、目の前にある、もう見たくもないような、退屈で全然面白くもないような写真のなかにあるのかもしれない。
伊奈◆アジェって世紀末だから、ちょうど100年前? 100年前っていうのはさ、そうやって記録されて写っているものに、いわゆる歴史的資料的な価値っていうのがあるじゃない。でも、現在はないよね。この膨大な量の写真も、100年経つとそういうことになるのかなぁ? それに、希少性ということもあったわけでしょう? 100年前の時代を今見るということは。でも今は大量にあるわけだから、それはどうなるんだろう。まあおそらく、残るのは残るよね、どんどんデジタルで残しておけばいいわけだから。とすると、その時に、例えば国立図書館の人みたいなのが何かやろうとすると、100年前ならアッジェしかいなかったからそれを残しておけばよかったのに、100年後にはこういう膨大なものをやらなきゃいけないのかなあ?
杉田●ホンマタカシとかHIROMIXとかの写真を100年後のキュレーターが発掘したりストックしたりするのってあまり考えられないような気がする。どちらもきらいなわけではないのだけど。発掘やストックのために血眼になるとしたら、目の前にあるようなつまらない、大量な写真の方じゃないかなあ。
伊奈◆なるほど。それは結構すごいことかもしれないね。だからさっきも言ったように、作家と言われている人達が撮る写真というのはドロドロなわけでしょう。意図とか、思いとか、制作しようという気合とか……。でもそのドロドロというのは、結局時代が我々の精神をある程度決定しているわけだから、高々何年間かの時代の精神とか雰囲気みたいなものに拘束されているわけじゃない。で、時間が経って、そんなものなくなってしまった時には、そうしたものを打ち出そうとした作品なんかは悪い意味での不自由さとしか映らなくなる。
杉田●うん、難しいね。例えば、写真もテクノロジーだよね。その黎明期というのはもちろんにそれに携わる人は少ない。だから、コンピュータを駆使しただけで取り上げられる。で、やがて成熟していくんだけど、そうなるとごく初期の、殆どジャギーばかりの作品とか、ナム・ジュン・パイクが磁石を置いてディスプレイに変な図形を描いたものとか、そういうプリミティヴな魅力のようなものが失われていく。現在のCGには、もう、そうした魅力はないじゃない? 写真についても同じようなことが言えるんじゃないかな。アジェの作品にある魅力は、後世の、いわゆる職業写真家の作品の中からは失われてしまっている。その意味で、自分の写真を一般大衆と差異化させて見せるというようなことに毒されていない、つまり一般の、普通の写真というのはとても可能性があるような気がする。
伊奈◆そうした普通の写真の面白さをちゃんと美術館で展覧会するというのも変なんだろうね。何かそういうことを見せて欲しいよね。でもそこまで気づいているキュレーターはいないだろうなあ。
杉田●ゲルハルト・リヒターに、自分のペインティングのモチーフに使った写真を膨大に貼りだす『アトラス』という作品があるけど、あれなんかはそれに近いよね。あのドクメンタ10では、一番大きなスペースが彼に割り振られていたのだけれでも、そこには、初老の男性が年若い妻をもらい、二人のあいだに生まれた子供を、本当に嬉しそうに撮っているものもたくさん出ている。写真一枚だけを見れば、あれは破り捨てたくなるような年賀状だよ。でも、あれは写真展として結構すごいと思ったんだ。リヒターは、ライカとかも持ってるいるから写真にこだわりがあるんだとは思うんだけど、でも彼の撮っている写 真っというのは、きわめて普通の写真。年齢の違いを差し引けば、乱暴な言い方すればここにある写真と大差ない。きれいな花を撮ったり、観光地とか山とかに行くと、それらパッと撮り、子どもが生まれるとまた嬉々としてそれを撮る。本当にしょうがないよね。でも、それがまたすごくいい。
伊奈◆リヒターが撮った写真ね。でもそれは普通のパパが撮った写真ということなんだよね。だけど、そうした写真って、修養がいらないわけだから教育とは馴染まないよね。例えば、写真学校では、群衆スナップのやり方とか、焼きのトーンを揃えろとかいうわけど、ある意味でそれは教育の側にとってやりやすいことだよね。芸大のデッサンみたいなもの。芸大がやってるから写真学校もそれで言いというつもりはないけど、とにかく、それってすごく楽なんだよね。お手本があるわけだから。でも、そのお手本というのが通用しない部分がある。例えば、ここにもってきた日記風のアルバムのようなものを作らせると、うまくいかないわけ。で、自分の20年前の作品を見せると、結構みんな感動するんだよ。でも、どうしたらそうなるののかということは教えられない。
杉田●キミの写真が素晴らしいということ(笑)。でも、あれを撮るためのコツって何かあるんでしょ。キミは言いたがらないかもしれないけど、キミがプリントを教えるのと同じように、あれを撮るようなコツとかいうのを言えばいいじゃん。それはやってるの?
伊奈◆うん。それはやってるつもりなんだけど、何かに邪魔されてる。
杉田●隠そうとしてるんじゃないの? 教育っていうのはある意味で「教えつつ隠す」だからね。
伊奈◆そうだよね。それが言いたかったんだよ。テクノロジーの修練的なものがまったくなくてもいいんじゃないかというという錯覚を与えたのはHIROMIXなのだけど……。セルフポートレートが多くなったのもHIROMIXの影響かもしれない。ボクらの時代には自写像という課題が出た。でも、全然違うんだよ、自写像とセルフポートレートは。20年前だと、自写像というとみんな森村泰昌みたいなことをやってくるわけ。ボクは聖徳太子に なったのだけど、今は本当に自分を撮る。20年前はそういう子はいなかった。少し前だと、シンディ・シャーマンとかの影響が強くて、セルフポートレートを撮るというと、必ずシンディ・シャーマン的になっていたりする。今はHIROMIX。
杉田●でもHIROMIXは嫌いっていう女の子も最近多いよ。
伊奈◆この頃出てきたね。本当にHIROMIXが好きだったら、別に写真学校に行かなくてもいいということになるはずだから、写真学校に行くということですでにふるいにかけられているのかもしれないね。
杉田●最初、写真が出てきた時、絵画は、あんなのテクニックが何もなくても誰でも撮れるから芸術じゃないっていう非難をしたわけだよね。そもそも、当時の絵画というのは、自然主義的なものが強く、テクニック修養的な側面があった。ところが、どうころんでも自然を客観的に描写するという能力においては写真にかなわない。そこで、絵画は、テクニック修養から解放されて、無意識の世界を描写する自動筆記的なものや、感情の表出や、身体性などの方に開かれていく。現在の、テクニック修養に躍起になってる写真も、コンピュータやアートの刺激によって、開かれればいいと思うんだけど。
伊奈◆例えば、コンピュータに取り込むことで、写真が加工されて変わっちゃう。あんなの芸術じゃないということだってできそうだよね。写真は真実を写すわけでしょう。でもあれは真実を写していないから写真じゃないと。やなぎみわなんかもそうだけど、あれは写真じゃないと言うことだって可能だよね。写真が出てきた時には、あんなの誰だって撮れるということで芸術性が否定されたわけだけど、今、コンピュータとの出会いによって、同じようなことに写真が直面している。つまり、写真は、真実だとか、自然の光の映り込みとか、ある場所にいてその人にしか撮れなかったということに特権性を与えているけども、それからは解放されるべきなのかもしれない。個人的には、もう一度その特権性が浮上してくることに期待するのだけれども。
杉田●一つの選択肢としては復活してくると思う。でもそのためには、それ以外の方法がパッと花開かないとね。だから、その意味ではやなぎみわとか、グルスキーとかを、写真の可能性としてみていくことがとりあえずないとダメだよね。個人的には、トマス・ルフに期待するけれども……。また、写真に限らず、アートが美術館の中で見るということから漏れ始めだしていることにも可能性を感じるな。社会や生活の中で作品と出会うということ。モニュメント的色彩の強いパブリック・アートとは少し性格が異なるけど、原宿で開かれた『水の波紋』とかドクメンタのクリスティン・ヒルとか、ミュンスターの彫刻プロジェクトとか。
伊奈◆写真でいうと、ジェフ・ウォールもそうだよね。ジェフ・ウォールは、地下鉄の広告に利用されていたライトボックスにインスパイアされてああいう作品をつくり始めたんだけども、あのジェフ・ウォールの作品も、ドクメンタでは本当に地下街に置いてあったんだよね。
杉田●スザンヌ・ラフォンヌの作品もよかった。普通のポスターのように街中にはってあって、当然、日が経つと破られたり落書きされたりするわけ。何か写真の見せ方みたいなものを、むしろ広告なんかの写真のあり方なんかの中に忍び込ませていくようなかたちで可能性を拡げている。そういった意味での可能性のほうにもっと開かれていかないとダメだと思う。だからテクニック修養もいいんだけど、絵画が示したようないろいろな可能性を見てみたい。そうすると、背景の意味は異なるにしても、逆にオーソドックスなものの居場所が定まってくる。さっきのリヒターは、基本的には愚直なまでに油彩にこだわっていて、しかも具象。だけど、そうしたものが可能なのも、その周囲に、奔放なさまざまな表現形態があるからだよ。キミの言っていた特権性の浮上も、そうした状況下であれば理解できる。
伊奈◆うん、そうだね。だからそういう意味で写真も、キミの言ったように開かれていくべきだと思う。そういうこともまで考えると、何かまったく修養とか教育とか、そういうものから懸け離れたところにあるようなものというのもひとつの可能性として見えてきちゃう。とにかく、偏重するのはよくないね。でも、教育現場に関わっていると可能性も見えるけどもさ、いつもいつも可能性に酔えるような状況でもない。だから、そういう意味では極めて陳腐な言い方だけど過渡期なのかな。
杉田●そうだね。でも、マイナスの部分だけを語ってきたような気がするけど、教育にはもちろんプラスもあるよね(笑)。
伊奈◆例えば、ここにある写真を撮ってくれた人たちって、無自覚で、投げっぱなしじゃない。写真学校だと、ここでアルバムにするというようなことをする。アルバムだと写真を並べ替えるということができなくなっちゃう。それが面白い。アルバムを作るためには、写真を一枚ずつ抜いて、いろんな並べ方、取捨選択もあるだろうということをやるんだけど、そのことによっていろいろ自覚させることができる。自分が撮った100枚のうち、足だけを撮っているものが3割あって、後はランダムにいろいろ撮っているとしたら、その3割の意味づけのようなものが可能になる。意味づけまでいかなくても、そういった ものを撮ってるんだということが自覚できる。教師の役割というのは、ナビゲーションのようなもの。例えば、バーッと100枚並べると、学生は全体を読み取ることはできないんだよ。何が写っているということはわかるんだけど、写っているものと写っているもののあいだの関係みたいなことがわからない。だから、それをパズルみたいに組み合わせるということをさせる。
杉田●でも、何かその辺ってセンス一発のような気がしない? センスいい奴って最初からできたりしないの?
伊奈◆そうなんだよ(笑)。100枚撮っても、できるやつはできる。でも、センスって何なんだろう? センスって極めて暴力的な言葉だよね。
杉田●そう、そうやって言っちゃうともう誰もそこに踏み込めない。でも、説明しえないものというか、分析したり、方法論化することができないものってあるじゃん。だからそういうものだよね。他のもうちょっと気の利いた言葉を使えばいいんだろうけど、やっぱり何か、ざっくばらんに言うと、そんなのセンス一発じゃんというようなところってあるじゃない? それはやっぱり大切にしたいなと思うんだよね。
伊奈◆うん。じゃあセンスのない人間はどうしたらいいの? 淘汰されるんですか(笑)?
杉田●いやいや、そうじゃなくて、それはもともと流動的なものであるし、そのセンスのなさがセンスになるということもある。少なくとも、それを100%教育によってはカバーできないし、補填することもできないということ。それを自覚する必要があるんじゃないかと思うんだ。教えているとまさにそういうことって感じていると思うんだけど、だって無理じゃない? 生徒に全部はキミの思いは伝わらないわけでしょ。
伊奈◆伝わったら苦労しないよね。
杉田●肝心のテクニックの最たるものでもあるプリント作業にしても、昔だったらカメラマンとプリンターと分業作業だったりしたわけじゃない? それって最近でもあるの?
伊奈◆今でもあるよ。東松照明なんかもそうだよ。もうほとんどモノクロはやってなくて、焼き専門の人がいて、何々先生のは私が焼きますいう感じなんだよ。東松さんがシンポジウムで言ってたんだけど、江戸時代の浮世絵もそうじゃない? 彫師がいて、摺師がいて、そういうことだと言ってた。それはなるほどなと思ったんだけど。そういうシステムには若いうちからは入れない。ある意味それは特権だからね。現像所のプリンターを指定して焼けるなんていうことは、誰かの紹介以外にはありえないわけだから無理ですね。
杉田●こういう写真だってそうやって焼けば……。
伊奈◆ものすごくよくなるよ。ちょっとしたトリミングの仕方でいくらでもなるでしょう。処理の仕方なんだよ。……やっぱり、写真ってきわめてあやふやだよね。
Essay copyright(C): 杉田 敦・伊奈英次