杉田 敦 (美術評論家・女子美術大学芸術学部教授)
1995『WASTE』
写真は、二次元の空間から出ることができない。どのようにもがいても、それは不可能なのだ。そのため写真には、どうしようもない閉塞感がある。あるいは、どうしようもない窒息感がある。写真は、閉じ込められ、濁った空気に気分を悪くし、息をするのも苦しいような状況のなかで、必死にもがいている。しかし、この閉塞感こそが、この窒息感こそが、写真を写真にしているのだ。
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そもそも写真は、暗い、閉じられた空間のなかで生まれた。暗い部屋、カメラ・オブスキュラ。起源を遡れば、すでに10世紀には、イヴン・アル・ハイサムによって、現代の視覚理論の基礎を築いたバクダッドの自然哲学者によって原型がつくられていたというそれは、一方の壁に、外界からの光を導く穴が開けられていたとはいえ、立派に、ひとつの閉じられた空間であった。やがて、感光材料が発明され、平面の上にイメージが定着されるようになる。しかし、そうなってからも、写真そのものが、無限の空間に解き放たれるということはなかった。暗い部屋から引き出されたそれは、今度は、奥行きのない、ひらぺったい平面の上をうろうろさせられることになる。終わりのない彷徨、それはいまも続いている。
ところで、こうした閉塞感は、あるいは閉じられた空間のなかにいるという意識は、独特な思考や行動理念を生み出す場合が少なくない。人間の地下世界に対する意識の変遷を、さまざまな角度から入念に調べ上げた科学史家ロザリンド・ウィリアムズによれば、環境意識、あるいはエコロジーというような思想もこうして生まれたもののひとつだという。地球という有限な、つまり閉じられた空間に生きているという意識が、そのなかで生活していくために必要な意識のひとつとして、エコロジーを生み出したというのだ。確かに、もしいまだに地球が球体であることが知られてなく、またその資源に限りがあるということや、生活空間にもおのずと限度があるということが知識として広まっていなければ、エコロジーというような思想が生まれ、またそれが広く定着したかどうかは疑わしい。また、必ずしも地球という惑星にこだわる必要がなく、宇宙空間へのSF的な発展が現実のものとなれば、資源の有効活用やリサイクル、あるいは無計画な廃棄に対する敏感な意識をどれだけ維持することができるだろうか。エコロジーは、あくまでも有限な空間と、そこから抜け出せないという、閉じ込められているという意識に基づいているのだ。ウィリアムズは、こうした意識を「地下意識」と呼んでいる。
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彼女の言葉をそのまま使えば、二次元平面に閉じ込められた写真もまた、地下意識を持っているということができるだろう。写真は、少なくとも、発明されたときのように、限りない可能性に期待が集まるというよりは、残された可能性が気になりはじめている。 写真にとっては、外部に広がる無限空間ではなく、内部に残された有限空間が問題なのだ。それに対してアートは、むしろ「地上意識」とでもいうべきものに貫かれている。それに対する絶望や、その死が、まことしやかに囁かれても、しかし一向にその成長は止まろうとしない。少なくとも、表面的にはそうみえるし、事実そのような活動が続けられている。もちろん、アートも、楽観的な直線的進化というものから見捨てられてからずいぶんと時間がたつ。しかし、本質的な意味ではなく、活動する領域の面積を拡張するという意味においては、いまだにその力は衰えていない。アートの場合、たとえ伝統的な二次元平面の表現である絵画であっても、その空間は破られたり、さまざまなものを付着されたり、ときには燃やされたりしながら、少しずつ別の領域に漏れ出している。また、より全体的な傾向に目を向ければ、種々の新しい素材やテクノロジーに対して、躊躇なく伸ばされる触手の貪欲さが目につくだろう。それは、無限に拡がる宇宙空間を相手にしたSF的な開発事業に喩えることができるかもしれない。つまり、この惑星がだめなら、あの惑星がある。次々に生み出されてくる、新しい素材やテクノロジーを利用して、それまでにない、まったく新しいものを作り出してみせること。アートという地上意識においては、少なくともこうした宇宙開発的な拡張が信用を失っていない。
写真の場合は、素材やテクノロジーの進化に依存した、こうしたかたちでの領域の拡張はもはや期待できない。ディジタル画像を写真の領域の拡張と考えたいという希望は理解できるが、それは、あくまでも写真の側の保身のための願望にすぎない。極端なことをいえば、ディジタル画像の側からみれば、それはどちらでもよいことなのである。被写体に関しても、地球上の資源に限りがあるように、地球上の被写体にもまた限りがある。刻々と減少しつつある驚異の風景、刻々と減少しつつある未だ見ぬ瞬間。構図に関しても、二次元平面の分割比率と重心、またその歪率という意味では、写真はすべてのものをやりつくしている。また、フォトグラムのようなアイデアに関しても、まったく手つかずで放置されているものがまだどこかに残っているなどということを、誰が信じられるだろうか。感光材料は、手垢がつくほどに、十分すぎるほどあれこれといじりまわされている。すべてがやりつくされているのだ。素材に関しても、被写体に関しても、そして構図やアイデアに関しても。
あるいは、時間というもののなかに無限の広がりを見ることができるだろうか。確かに、かつて考えられていたような、自然が造り出した驚異の風景は日に日に減りつつある。しかし、それを侵食し、それを被いつくそうとしているテクノロジーの生み出す人工的な風景は、逆に日に日に増殖している。また、そのような景色のなかに埋め込まれた、人間たちの生態も、時間の経過とともに大きく変質している。その上、それに伴って環境や生活備品までが、めまぐるしいまでに変化している。次に来る一瞬は、すみからすみまでが、まったく新しい被写体なのだ。おそらく、被写体に関しては、時間のなかに無限の広がりを期待することは許されるだろう。すみずみまで知られ、すみずみまで試みられた平面に開けられた時間という小さな穴。かつて暗い部屋のなかに射し込んでいた外光のように、瞬間ごとに新しい光景を繰り広げてくれる時間。確かに写真は、その拡がりのなかで生きていくことができるかもしれない。しかし、あえていえば、それはただひたすら待ち受けることによって広がる無限空間である。非常に狭い牢獄であっても、時間軸を計算に入れれば無限大の空間であるように、ただそれも広がっているのにすぎないのだ。そのような空間のなかでは、写真の窒息感が解消されるということは期待できない。
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資源の有限さに気づかないアートが、取り憑かれたように外へ外へと外爆発を続けるとき、時間だけを唯一の希望とする暗い部屋のなかに閉じ込められた写真は、内へ内へと内爆発を繰り返すことになる。かつて、マーシャル・マクルーハンによって時代遅れの「熱いメディア」と断定された写真は、しかし逆に、「冷たいメディア」の特徴である内爆発を繰り返すのだ。
一見すると、写真には、そこに写っているものにも、そのバランスにも、それを捉えるアイデアにも、何ひとつ目新しいものはない。すべてがやりつくされ、すべてが繰り返されている。しかし、注意して目を凝らしてみると、そこから少しだけズレたところに、わずかばかりの空隙があることに気づく。写真は、そのわずかばかりの隙間を狙って踏み込んでいく。実現されるものは、不安定で、不出来な、収まりの悪いものになる。しかしそここそが、まだ誰も踏み込んだことのない、手つかずの領域なのだ。
地上意識にとらわれた単純な頭には、なぜそのようなわけのわからない被写体なのか、なぜそのような収まりの悪いバランスなのか、なぜそのような魅力のないアイデアなのか、まったく理解することができない。しかしそれは、屈折に屈折を重ね、反射に反射を重ねた地下意識が、やっとの思いで見つけ出した未踏地なのだ。閉じられた空間のなかで、何度となく反射し、何度となく屈折する写真。内部へ、内部へとひびわれていく内爆発。写真という、かつて誕生したときには透明だった領域が、この内爆発のひびわれで、いまや完全に白濁しようとしている。
内爆発とともに、写真にとって欠かせないのがリサイクルである。すでに過去に一度実行されたもの、あるいは何度となく繰り返し実行されたもの、それらに対する意味を少しずらすことによって、あるいは大胆に大転換することによって、まったく別のものに変質させるのだ。つまり、同じものを、意味をつけ換えることによって、それまでにないものに作り直すのだ。あるいは、すでに使い古された被写体や構図、アイデアを、異なるものとして解釈することによって、同じ行為を繰り返しながらも、まったく異なる行為による、まったく異なる作品として位置づけることが可能になるのだ。
リサイクル、これは同じような地下意識をもつ、エコロジーに特徴的な作業である。地球のなかの限られた資源を、一度使っただけで捨て去るのではなく、可能なかぎり再利用しようという発想。それは、地球上で生を営んでいくためには、必要欠くべからざる作業である。同じように写真においても、一度使われたものを可能なかぎり再利用することは、写真を存続させていくためには欠かせない作業なのだ。それも、徹底的に行なわれなくてはならない。アリアドネの機転も期待できそうにない、ダイダロスの迷宮。そのなかで生きていくためには、ミノタウロスの影に脅えているだけではだめなのだ。使い古されたものを含めて、使えそうなものは、何でも手当たりしだいに利用する逞しさ。しかしだとすれば、写真という地下意識が、エコロジーという地下意識に手を延ばすことはあるのだろうか。
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写真という閉じられた空間のなかでは、エコロジーという地下意識はリサイクルのために利用される場合が多い。エコロジカルな理解によって、何でもない風景が、別の意味を孕み始めるような場合がこれにあたる。例えば、オランダの汚染地帯を撮り続けてきたヴァウト・ベルハーの作品は、作家自身によって付け加えられる解説によって、何でもない風景が陰惨な意味を露呈し始める。しかし、ここには、非常に複雑な要素がからんでいる。
例えば、ベルハーが常に断わりを入れるように、写真の環境に対する影響は決して小さくない。写真、それ自体が環境に対して大きな負荷となっているのだ。銀塩というエコロジーの視点からみれば決して歓迎すべきものではない物質と、それに対する処理を必要とする写真が、エコロジーを啓蒙したり、エコロジーの直面する問題を伝えたり、エコロジーが否定するものの実態を告発したりすれば、それこそが大きな欺瞞と化してしまう。もちろん、だからといって写真を全面的に否定しようというわけでもではない。写真を否定することは、人間の活動領域を縮小させることになる。しかし、いわゆる政治的妥当性を疑われるような場合以上に、環境に対して負荷を与えるという事実は、写真のなかに罪の意識となって澱のように沈むことになる。まただからといって、贖罪の意味でエコロジーを直線的に称揚するようなことが無意味なのはいうまでもないだろう。エコロジーとは、あくまでも地球というひとつの惑星の内部に閉じ込められているという意識が要請した、内爆発的な、ひとつの現実的な対応なのだ。それを無視して、超越的にそれを讚えるようなことがあるとすれば、同じ地下意識を持つものにとっては自己否定を意味することになる。内爆発を否定すること、それは写真の歴史を否定することとも同義である。
エコロジーの皮膚の下には、テクノロジーという、楽天的進化を信じて疑わない、凶暴なまでのエネルギーが眠っている。エコロジーという地下意識さえなければ、このエネルギーは、それこそ縦横無尽に暴れまわるだろう。エコロジーは、このエネルギーを抑さえ込み、テクノロジーそれ自体を、地下意識を持つものとして再生させようとする思想である。これに対して写真は、その皮膚の下に、決して絶えることのない表現への欲求を眠らせている。写真は、常にこの欲求を刺激し、常にそれを活性化しようとしている。しかしそれでもなお、写真は、閉じられた空間から脱出することができない。これは、同じ閉じられた空間でありながらも、そのなかに働く力学が、まったく対極的なものであることを示している。
エコロジーの場合は、問題は人間の手のなかにある純粋な凶暴としてのテクノロジーをどう抑さえるかという問題であり、写真の場合は、常に不能化の危機に曝されている表現への欲求を、どれだけ凶暴なものにするかという問題である。エコロジーにおけるテクノロジーの去勢と、写真における表現欲動の刺激。写真は、エコロジーの皮膚の下に隠れている、去勢すべき純粋な凶暴に手を延ばすことで、自らを欲情させることができるだろうか。
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廃棄物には、妖しい美しさが漂っている。汚いけれども美しく、けがれているけれども気高く、壊れているけれども、完全であるという、矛盾する美。それらは、純粋な凶暴としてのテクノロジーが、リサイクルのような地下意識など考えもしないで作り出したものの残骸である。人類たちの日常という巨大な体内をせわしなく通り抜け、いま密かに排泄されたそれらは、これまでそれに手を延ばすことなど想像もできなかったものであり、暗に禁じられてきたものである。しかし、地下意識に目覚めた人間たちは、それを密かに循環させる。密かに循環させて、純粋な凶暴を手懐けたような振りを装ってみる。そして満足する。
写真にとってもそれは、手を伸ばすことが禁じられてきたもののひとつだ。しかしそれは、否定すべき凶暴であるからというのでも、無視すべき不浄であるからというのでもない。それが、禁じられてきたのはここ最近のことである。閉空間のなかで多重に屈折し、内爆発を繰り返す写真にとって、もはや立ちかえることができない原初的な概念。それに手を延ばすことが禁じられているのは、それがこの概念、「美」をはらんでいるからである。禁断の美、不浄の美、あるいは矛盾する美。写真にとってもはや決してリサイクルできないまで使い尽くされた概念である「美」。排泄物のなかで輝くのは、ノスタルジーさえ感じられる「美」という概念なのだ。
しかし、その秘密の排泄物に伸びようとする手は押しとどめることができそうにない。そなぜならそれは、エコロジーのコンテクストを利用することによって、複雑に屈折を繰り返す内爆発の過程を、仮想的に実行するからである。人間の日常という体内を通過してきた汚れたものであるということ、純粋な凶暴としてのテクノロジーが無計画に生み出した醜悪さを持っているということ、統一体としての意味を剥奪された不完全なものであることなど、エコロジーのコンテクストにおいて内爆発のプロセスが代行されるのだ。定位不能な概念である「美」にも関わらず、すんなりと写真という地下に収まりそうな気配を漂わせるのはそのためだ。そのため、それに対して伸ばされる手を押しとどめることもまた難しいのだ。あるいは、さらに身を乗り出して、それに口づけてしまう場合さえあるかもしれない。
恥辱の接吻。伊奈英次の作品に捉えられている、廃棄物の妖しい美しさ。ひっそりとうち捨てられたそれらの排泄物は、もとのかたちがわからないまでに細かく粉砕され、かつて何であったかわからないまでにねじ曲げられ、一定の大きさの塊に押し潰されている。しかしそれでも、いやそれだからこそ、そこには妖しい美しさが漂うのだ。そっと、その不浄の、しかし至高の美に優しく口づけること。キリスト教の陰陽反転としての悪魔主義がそうしたように、写真という地下意識がそうするとき、それは外爆発を続ける地上意識に対する愛と憎しみが入り交じった複雑な感情に違いない。エコロジーによって去勢されている振りを装いつつも、純粋な凶暴としての危ない魅力を放ち続けるテクノロジーに対する欲望。複雑な屈折や幾重もの反射を経たものでないと、何ひとつ実行できなくなっている表現の不能性に対する焦燥。このような感情が、不浄の美を前にして、一瞬だけ躊躇するものの背中を、確信を込めて押すのだ。背徳の行為には、常にある種の輝きがある。
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地下に閉じ込められたものはじゅくじゅくと発酵していく。けれども、慰めがないわけではない。地下に、あるいは牢獄に監禁されたものの絶望はそれほど深刻ではないはずだ。そこには、常に脱出という希望がある。少なくともそこでは、それを夢み、それを欲望し、それに挫折し、けれども発酵していくことができる。モーリス・ブランショがいうように、無限空間は、出口がないという意味において、より完全な牢獄なのだ。そしてさらに問題なのは、無限空間のなかでは、閉じ込められているということに、なかなか気づくことができないのだ。そこでは、閉じ込められているにもかかわらず、腐ることも、発酵することもできないのだ。
Essay copyright(C): 杉田 敦