杉田 敦 (美術評論家・女子美術大学芸術学部教授)
1991『メカノ』青弓社
写真は、ただ茫然として、不透明な壁をその限界とする、ある立体角を切り出してくるだけではない。伊奈英次の『ZONE』と名づけられた一連の作品は、日常の視覚風景が、不透明な壁によって包囲されていることを、その遠近感不在の不透明帯の中に、新たな<奥行き>を見せることによって気づかせてくれる。またその<奥行き>は、視覚限界としての不透明な壁の存在そのものを再認識させるとともに、不透明帯に包まれた人間の視覚空間が、無限の分解能と無限の深みをもった空間のただ中に、危うげな梁を渡して構築された空中庭園的な空間であることも知らせてくれる。不透明性は、他ならぬ透明性の中に配置されているのだ……。
『ZONE』は、在日米軍の通信用アンテナ施設を8×10の大判カメラで撮り続けたもので、深みある碧空や、茜色に霞む夕空を背景に、さまざまな形態の<聴力の構造体>が浮かび上がる。その、ある部分は光を受けて輝線となり、ある部分は光を区切る一条の闇となる網状の通信施設は、注視すればするほど、さらなる極細線を網目の間隙に出現させる。伊奈自身が語るところによれば、オリジナル・ポジには、プリントには現れない、さらなる細線を見出すことができるという。また彼の作品の構図は、前面に拡がる微細なテクスチャがそのまま浮上してくるような、一見して大判のカメラで撮影されたことがわかる、高解像度の利を水平方向に利用した構図を採っていない。いってみればそれは、単にそっけなく中央に<張力の構造体>を据えただけのもので、高解像度の利点は、注視によって辿られる解像度の深みに、つまり垂直方向に利用されている。またその特性にしても、意識的に写真を貫いて垂直に、視線をその深淵に降下させてみない限り、決して感知されることがない。
人間が沈み、周囲を取り囲まれている<世界>は、当然のことながら単純に知覚主体と切り離して考えることはできない。しかし、物理学的な世界観は、微視的には素粒子レヴェルの微細な宇宙まで浸潤し、巨視的には銀河をいくつも呑み込む、もはや想像の光さえ及ばない宇宙の彼方まで肥大している。そうした<世界>の大部分は、相応の方法で眺められれば、電子顕微鏡を覗き込めば微細な物質の肌理が現れるように、また電波望遠鏡が遥か彼方の微弱な電波から星雲の姿を再構成してみせるように、即座に現出するはずである。それは、M.フーコーが、全感覚的眼差しの前に、臨床医学は何の疑いもなく病の<可視性>を前提としていたと指摘したように、現代科学もまた、未来のものまでを含めたさまざまな観測装置の視線に対して、物理的世界の<可視性>を前提としているからである。また、<可視性>の充溢する世界に登場した<不可視性>、つまりサイコロを振る神や、漸近的自由というクォークの閉じ込め、あるいは光さえ捕捉して逃がさないというあの漆黒は、あくまでも<可視性>の世界の延長の、いわば<可視性>の辺境にみられる特殊な状況としての<不可視性>だと理解され、決して<不可視性>が<可視性>を脅かすということはない。あまりにも相互作用が望まれない探索粒子の場合も、その遠視的な機能だけが特性として取り上げられ、近傍に対する盲目性は決して問題にされることはない。物理的世界は、明らかに微視的にも巨視的にも視覚をひとつの基準としており、その無限遠に至るまで澄み渡った大洋の唯一の海棲動物として、人間が存在すると考えられている。
しかし、物理学的世界は、本来、日常のべったりとした不透明な殻に包まれた視覚風景からは想像できないものである。不透明な、顔料を塗りつけたような、輪郭のしっかりした、素朴な世界それこそが世界なのだという転倒は可能である。しかし、明らかにある種の事柄は、例えば顕微鏡を覗き込むといったような行為は、そうした澄み渡った大洋への間道となる。あるいは、そのような行為を考えるまでもなく、I.ハッキングが指摘するように、ある装置の生産、つまり工学技術の存在それこそによって、実在論の最良の証明が与えられる。天幕の内それこそが全宇宙なのであるといういわば徹底した実証主義の世界は、日常的には確実に破れているのだ。また逆に、最遠平面を無限後退させたような、素朴な日常の視覚風景と無限遠に至るまで澄み渡った世界とを同一なものと見なす傾向も、ある種の感覚麻痺であり、それが通常の視覚風景からどれだけ掛け離れたものとなるかは言うまでもないだろう。
あくまでも、不透明な壁という到達限界を持つ視覚風景は、透明性の中に浸されているのである。伊奈の作品は、そうした構造を、通信施設という特殊ではあるが、またある意味ではきわめて一般的な人間の活動レヴェルの視覚風景の中に探索し捕捉したものである。張力のフレームを辿り、注視すれば現れる解像度の階梯構造は、そのまま連続的に素粒子レヴェルの視覚風景へと急降下してしまうかのような眩暈を覚えさせる。それは、不透明な壁がすべて取り払われ、眼前や眼下に究極の透明度を持った無限空間が広がるという、透明性への思いがけない突入という事態に対する恐怖である。ブルーやオレンジを背景に浮かび上がる<張力の構造体>を覗き込むと、次々と壁の中から浮上してくる極細線は、人間の視覚の不透明性を語るとともに、その不透明性が漬け込まれた本来の透明性こそを語るのである。
Essay copyright(C): 杉田 敦