三島 靖 (アサヒカメラ編集委員)
私たちはいま、あらゆる場所で監視されている。銀行やコンビニエンスストアの店内はもちろん、エレベーターの中や街頭でも小さなカメラが目にとまる。2002年2月、東京・新宿の盛り場で、街頭に設置された監視カメラの映像を動かぬ証拠として「当たり屋」が逮捕されたことも記憶に新しい。高速道路で速度違反を取り締まったり、駐車場で車上狙いを見張るカメラなど、監視しているとアピールすることでどれほど違反が減るのか知らないが、ご苦労なことだと笑って通り過ぎるには不気味すぎる環境なのだ。監視カメラ本体への需要もさることながら、監視カメラ用レンズの需要増加で、光学レンズメーカーに新しい市場が拓けたという笑えない噂話も聞いたことがある。
写真家・伊奈英次が発表を始めた新しいシリーズ『WATCH』は、そんな「監視カメラ」を撮り集めたものだ(1) 。国内のみならず海外でも撮影されているが、写っている監視カメラのある場所や状況をひと目で特定できる説明的な構図は多くない。したがって、世界の市民生活を監視カメラが侵している、という社会時評にはほとんど見えない。写真からうかがえるのは素朴な、<あちらからこちらを見ているカメラ>のたたずまい、とでもいうようなものだ。しかし、そのことは否応なく<こちらからあちらを見ているカメラ>の存在を認識させる。
伊奈はこれまでに、駐日米軍通信施設の大型アンテナ群を撮った『ZONE』(87年)や、産業廃棄物を撮った『WASTE』(95年)など、大判カメラで撮影した緻密で美しいカラー作品で知られてきた。たとえば『ZONE』で見られる、白い雲の浮かぶ青空を背景に「象の檻」と呼ばれる通信アンテナが幾何学的な美しさで聳える写真などは、アメリカで70年代後半から80年代前半に、大判カメラを使ったカラー写真で批評性の強い風景写真を発表して注目された写真家たちの方法、すなわち、風景画のように静かで美しい写真で、撮られた風景に刻まれた傷を逆説的に浮き上がらせるやりかたを、正統的に継承していたといえるだろう。大型カメラを風景に向かい合わせ、かつて自然の美そのものを写真のリアリティによって賛美しようとした同じ方法で美しく風景をとらえながら、その場所に加えられた環境破壊や乱開発を暗示する--告発調のスナップ写真とは違う、諧調豊かな画面に抑制の効いた暗示が響き、メッセージは深みを増す。当時の私の写真に関する認識といえば、社会批評の写真はすなわちストーリーもののルポルタージュ写真、中大判カメラのカラー撮影といえばカレンダーなどに使われる微温的な風景写真、程度でもあったので、静かで濃密なカラー印画がむしろ強い声なき声を発することを教えられ、影響された。
もっとも、影響されすぎた面がなかったわけではない。教科書通りのストーリー・フォトを扱う作業やその現場を支配していた60年代的な言説に嫌気がさす気分のうちにこのような写真を受け入れてしまったところもあれば、大判カメラで撮る作業の前時代的なカッコよさが、報道用機材でニュース写真を速写するときの荒っぽさよりも写真の原点に近いような気がして、その分だけ反時代的な、より強い批評精神があるように思いこんでもいた。撮影に手間がかかることを被写体との対峙といったり、フィルムサイズが大きいためプリントや印刷で拡大しても画像の粒状性が緻密なことをそのまま撮影者の細やかな描写力のようにいってしまったり、というようにだ。いっぽう私のように気分だけの浅薄さで継承にいそしんだ制作者も当時は多くて(むろん継承というより盗用というべきだろうが)(2) 、玉石ありとはいえあまりに誰もが手を出してしまった後では、このようなスタイルは日本ではすっかり飽きられてしまったようだ。
かつてこの傾向の中心にいたジョン・ファールやレン・ジェンシェル、ロバート・ドーソンといった人たちが、現在も同じ様式で活動を続けているかどうかは知らないのだが、実のところこの様式も、声高で明確な告発調のドキュメント写真が同じ弊を招いたのと同様、いつしか撮る側や見る側が属する社会の価値観に応じてしまう「サービス写真」のクリシェに陥らざるをえないのではないかと現在の私は思う。
私は、伊奈英次が撮影してきたもの、これから撮ろうとしているものを批判するためにこの話をしたのではない。監視カメラを撮った新シリーズ『WATCH』は、一般向けの小さいデジタルカメラで撮影されているようだ。もちろん監視カメラの前で大判カメラを組み立てるわけにもいかないだろうから、盗み撮りが可能な小型カメラを使うのは自然だが、私が注目したのは、使うカメラをまったく変えたこのシリーズが、これまでの作品と変わらない「美しさ」の点で共通していた、ということである。私は監視カメラがさまざまに写っている写真を、これまでに伊奈が発表した作品同様「美しい」と思った。すんなりと美しい写真を撮ることがいかに困難かということは、写真を撮るひとなら誰でも知っている。しかも多くの鑑賞者はその苦心を理解せず、修飾辞の多いにせの美しさに群がっていく。ゆえに写真が「美しい」というと「めめしい」といっているのと同じことになってしまったりする。それでもなお、『WATCH』を「美しい」という言葉で私は誰かに伝えたかった。
これまでのシリーズも含め、現代の事象に批評的な検索の目を向けながら同時にこれだけ味もそっけもない美しさを示すことのできる能力は、並みたいていのものではない。ただそのいっぽうで、監視カメラの写真がかくも「美しい」ことが、私にはどこか惜しいような気がした。ニュース写真のように説明的な写真を撮れというのではまったくない。その逆だ。私が考えたいのは『WATCH』の美しさが放つ「声なき声」とはなんだろうか、それは「美しい写真」によって表明されるべきものなのだろうか、ということである。もちろん監視カメラが、危険な存在であるゆえに、あるいはすぐれた先端技術が一種の後ろ暗さをもって投入されているがゆえに、不当ともいえる美しさを持っていて、そのことが写真によって伝えられているとするなら、つまり『WATCH』を一種の<警告写真>だと考えるなら、これで十分だろう。しかし私はそうは思わない。『WATCH』を見ていると、その表面の美しさを踏み抜いて画面の向こうへ突き抜けるように感じる。そして、この写真の本質的に重要な価値はそこにある。この写真は、監視されるという社会的問題を批判的に報告するのではなく、「見られることを見る状態」を、このうえなく空虚に投げ出している--つまりこの写真は、どこかで写真を見ること以上の何かを私に体験させるのだ。実際の撮影について伊奈自身が教えてくれた小さな事実が、私には気になっている。いかに彼の撮り方が巧妙でも、監視カメラをわざわざ撮影しているからには何かトラブルが起きそうなものだが、カメラで監視していた側から詰問されたことはただの一度もなかったというのだ。もちろん罪のないお遊びと見られた場合も多かろうし、伊奈によれば、リアルタイムで監視カメラの映像がチェックされていることはむしろ少なく、やはり一種の抑止効果として監視カメラは存在しているのでは、ともいう。主体(自我)のない<見る/見られる>の関係。それが現代人、ことに都市在住者にとってのまなざしの大半を構成しているのではないか、ということは私が指摘するまでもないことだろう。そしてそのような「まなざし」のありようは、当然ながら現代の写真のありかたそのものにもかかわる。ただ私は、そのような「まなざし」が存在することに違和感があるし、怖ろしさすら感じる。写真展を見に行って『WATCH』に囲まれたとき、私が最初に思ったのは、写っている監視カメラの<あちら側>から<こちら側>を見たい、ということだった。監視カメラのレンズに伊奈が撮影している様子が写り込んでいる場合など、写真そのものを見るよりもむしろ私自身が<あちら側>の主体となって、目の前の写真の美しい表面が向こう側にある恐怖へと踏み破れるのを防ぐ均衡をとりたい、と思ったほどだ。私が、これらの写真がまず「美しい」という第一印象を持っていることを惜しいと思った、といいながら、これらの写真にはこの美しさ(それは写真家に一定以上の技量を要求するが)がなければ意味がないように感じたのは、このことと関連する。伊奈によると、今後『WATCH』は、大判カメラでの撮影につきまとった事大性や作品主義(それは写真の原理に近いという印象から審美的な付加価値となってもいたのだが)を、ややずらして進めていきたいということだった。そして、写っている監視カメラが意外に「かわいい」存在に見えることを生かして、コンパクトで軽快な写真集にまとめてみたい、という話も出た。
その話を受けてたとえば、現代美術家チームで近年は写真作品の発表にも積極的なフィッシュリ&ヴァイスが出版している小型の写真集『庭』(3) のように、一見キュートなスタイルをとりながらその内実は……というような造本の例を私自身その場で提案しておきながら、その方法もかなりまずいような気がした。『WATCH』の美しさは、見る側がその写真を写真の向こう側へ通り抜けるための「膜」である。この美しさによって、ひとはたんに写真に写っているものを見て何ごとかを考える、というようなことを超えた、見ることそのものをこちら側へ向ける行動へあやまたず踏み出すことができるのだ。小型デジタルカメラで軽快に撮ったものを手軽でかつ含意ある小さい本にまとめることは、伊奈のような巧者にはお手のものだろう。しかし、その労はもっと違った方向へ費やすほうがよいかもしれない。不当に大きく、不当にリアルで、不当に美しい--あくまでも、ごてついた飾りでなく、なにかそのようなことがこの写真にはあっていいように、いや、あるべきだと私は思うのだ。「写真家の興味の対象は、実は倫理を超越してしまうものだ、っていうふうに思うんです」「その倫理性をわれわれ写真家は、別に問う必要はないと思うんです。そうじゃなくて、別な世界があるということを呈示することなんです。だから美しい、美しくないという基準ともちょっと違う」(4) ということが前提なのだとするなら、見る側と見せる側が同じ水準ですべきことは何かといえば、倫理の棚上げではなく、倫理そのものへの批評でなければならないだろう。でなければ、倫理の問題にまったく無関心(故意に目をつぶったとも考えられるが)だったために戦後から現在に至るまで「記録写真家(あるいは記録映画製作者)にすぎなかった私のどこがいけなかったのか」と叫び続けているレニ・リーフェンシュタールが、実はナチスの大衆牽引力の要諦でもあった「美しさ」の本質的な退廃を逆説的に表現しえた正当な体制批判者でもありえたという問題を、私たちは永遠に解決することができない。私がこの写真は、この写真そのものを見るためにあるのではないのではなかろうか、と思うのは、そういうことなのである。見ることと見られることの関係の空虚さを示しながら、なおかつ写真が写真によって食い破られる寸前の、そのぎりぎりのところで「美しさ」を放っている写真、そんな写真が現れたら(それはもはや写真ではないかもしれないが)素晴らしいことになりそうだ。『WATCH』がそこへ向かうのかどうか、向かっているとして今後具体的になにをどうするかは、もちろん私の考えることではないが、とりあえず「写真展」として目にふれた『WATCH』の本体が「データ」であること、いま、その支持体を技術的に想像できないだけであること(つまり『WATCH』はたまたま写真プリントの形で示されたが、実は見慣れた写真の形式から自由であること)、そのあたりに何らかの突破口がありそうにも想像している。
伊奈の『WATCH』によって私は、監視カメラというものが、思ったほど悪意ある存在ではないことを知った。それは、「私たちを見たい欲望」の産物ではない。むしろ「私たちが見られたい欲望」から現れた、嗜好品のような存在なのだ。そういえばここ何年のことだろう、監視カメラの増加に合わせでもするかのように、自分をことさらに見せたがる映像が芸術的だとされてもいるではないか。いったい私たちはそもそも、「誰に」見られたいのであろうか。(5)
(1)写真展『WATCH』2002年4月6日-28日/art&river bank(東京)
(2)広告などの撮影で海外ロケが贅沢に行われた当時、いかにもという風景(商品やモデルの背景だが)が「ついで」に撮れる機会は多かった。スタジオ撮影のとき海外の写真集をスタジオスタッフに見せてセットを組ませたりするあの気分で、「ついで」の撮影も数多く行われたに違いない。
(3)『Garten』Peter fischli/David Weiss; OCTAGON 1998
(4)『アサヒカメラ』99年8月号での伊奈の発言(5)2003年3月28日、イラク戦争のただ中で、IGS(日本政府の情報収集衛星=事実上日本初の偵察衛星)が打ち上げられた。この文脈が誤解を招かないようにと思う。
*この一文は2002年6月、Photographer’s gallery(東京)のホームページ(http://www.pg-web.net/)向けに書いた。03年3月、こちらのホームページ収録にあたって手直しを加え、双方に掲載していただいた。
Essay copyright(C): 三島 靖